小樽・明治期の繁栄
小樽繁栄のルーツはニシン漁にありますが、明治に入り、北海道開拓が本格化すると、その玄関港として発展します。多くの開拓移民が小樽に上陸し、それを支える様々な開拓物資や生活用品を満載した北前船(弁財船)が集結し、商港としての発展基盤がここで生まれます。
明治13年に日本で三番目の鉄道が札幌との間に敷かれて、流通の要となった小樽では、港湾の整備が進められ、積荷を保管する木骨石造倉庫が次々に立ち並びました。明治32年には開港場として指定され、国際貿易港になります。この時すでに営業倉庫は250を数え、うち石造倉庫が百棟以上もありました。北一硝子の代表的な店舗施設であります三号館もその中のひとつでした。
三号館倉庫の歴史
北一硝子三号館は、木村倉庫社長、初代木村円吉により明治中期(明治24年)に建てられた木骨石張倉庫です。この倉庫は時代とともにその役割が大きく変わってきました。当初は漁業用倉庫として、みがきニシンなど魚の加工品が納められておりましたが、ニシン漁の衰退とともにさまざまな物資が納められるようになりました。
木骨には、エゾ松、トド松、床下の主要部分にはヒノキを使っています。外壁には小樽軟石が用いられております。軟石は断熱効果にすぐれ、倉庫の壁材としては最適のもので、百年以上を経た今でも、昔のまましっかりとした姿を残しております。
一世紀におよぶ小樽での歩み
北一硝子の前身、浅原硝子が生まれたのは、小樽函館間の鉄道工事が始まる前年の明治34年のこと。初代社長の浅原久吉が薩摩切子の発祥の地、九州より北海道へ渡り、小樽で石油ランプの製造を始めました。電気が普及していない当時、浅原硝子の製造する石油ランプは、人々の生活必需品でした。さらに明治43年には漁業用の浮き玉の製造も始め、小樽、室蘭、旭川、釧路、樺太と製造工場を増設し、従業員数も約400名となり、当時の北海道では大企業に名を連ねていたのです。
小樽の文化とガラスの調和
前述の通り、小樽は明治以降の日本において急速に発展した土地です。それも北海道の全域の開拓の玄関港として、道産品の搬出の積出港として、また樺太への中継港として飛躍的な発展をとげました。この時代は、鎖国を解いた明治政府の国策として、さまざまな舶来文化、文明が怒涛のごとく押し寄せてきた時代でもありました。鉄道や大邸宅、寺社仏閣、旅館、料亭など、どんどん新しく建ち並ぶ勢いがあったのです。
しかし、昭和20年の終戦を境に大発展は完全に止まります。その後の法改正や社会情勢の変化により昭和40年代に入ると北海道経済の中核は完全に札幌へ移行され、その後の小樽は「斜陽」という形容詞がしばらくついて推移しました。
しかしながら、偉大な文化遺産のすべてが失われたわけではありませんでした。明治大正期の建築物や町並みは、貴重な文化遺産としてその形を今にとどめることになります。そしてその貴重な歴史的・文化的な遺産の価値を正しく認識した上で、硝子との調和をどのように図るか、が当社北一硝子の大きなテーマとなっております。
小樽の文化をより多くの人に伝えたい
本州各地の古い都市には、長い歴史的背景がありますが、小樽は、近代日本の夜明けに和の文化と洋の文化を同時に取り入れてスタートした町だといえます。それがまた、非常にグローバルな視点で展開したために、特異的な都市形成がなされてきました。このような小樽の成長過程を踏まえれば、都市を保存していく重要な価値があると私たちは考えています。スクラップ・アンド・ビルドによる安易な近代化からのがれ、個性を保持している小樽は、そもそも経済の集散地であるとともに文化の集散地でもあったのです。
この町の魅力を伝えていくのも、 小樽に生まれた北一硝子の大切な使命と考えております。